浦賀港 引揚記念の碑

 僕の父はもう何年も前に故郷で天寿を全うしましたが、僕が子供だった頃、ときどき太平洋戦争に行った時のことを話してくれました。

 詳細は覚えていませんが、当時20代前半だった父は軍属の書記官助手のような任務で、(現在の)中国最南端の「海南島(かいなんとう)」に赴き、そこで終戦を迎えたそうです。書記官助手とはいえ、日本刀を腰に重い背嚢を背負ってジャングルを何日も行軍したことなど、とても辛い話だった思い出があります。

 そして終戦になり、父が引き揚げ船で帰国したのがこの浦賀港でした。この記念碑に記してあることそのままの話を、父は子供だった僕たち兄弟に話してくれたのを覚えています。すぐ目の前は日本の陸地なのに、何日も湾口に投錨したまま、頭から消毒薬をかけられる日々が続き、とても悲しかったと話していました。

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(正面の碑文)

 昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争は終結ポツダム宣言により海外の軍人、軍属及び一般邦人は日本に返還された。ここ浦賀港も引揚指定港として、中部太平洋や南方諸地域、中国大陸などから56万余人を受け入れた。

 引揚者は敗戦の失意のもと疲労困憊の極限にあり、栄養失調や疫病で倒れる者が続出した。ことに翌21年、華南方面からの引揚船内でコレラが発生。以後、続々と感染者を乗せた船が入港。このため、旧海軍対潜学校(久里浜長瀬)に設けられた浦賀検疫所に直接上陸、有史以来かってない大防疫が実施された。この間、祖国を目前にして多くの人々が船内や病院で亡くなる悲劇があった。昭和22年5月浦賀引揚援護局の閉鎖で、この地の引揚業務も幕を閉じる。

 私たちは再び繰り返してはならない戦争により悲惨な引揚の体験を後世に伝え、犠牲となられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念し、市制百周年にあたりここに記念碑を建立する。

 横須賀市

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(裏面の設立趣旨)

 ここ浦賀港は、先の大戦終結後、引揚指定港の一つとして極めて重要な責務を担いました。引揚とコレラ等の防疫に携わったすべての人々をねぎらい謝意を表するとともに、この地で倒れた幾多の御霊に弔意を表します。この碑は、引揚者や地元の方々の熱意により建立が実現したものであり、市制百周年を迎えるにあたり、当地の歴史を再認識し、恒久平和の願いを後世に伝えんとするものです。

 平成18年(2006年)10月 横須賀市長 蒲谷亮一

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 それでも、父は無事に生き残ってここに上陸し、そこからまた長旅の後に故郷に帰り、そして数年後に東京で生まれ育った母と結婚して僕たち兄弟を生み育ててくれたことを想うと、なんとも感慨深いです。

 浦賀港西岸の湾口近く、よこすか浦賀病院の向かい側のきれいに整備された護岸公園の奥にひっそりと建っています。

 

 おしまい。